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CULTURE HISTORY REVIEW

二二八事件 知られざる「三月大虐殺」


次に私は、二二八事件について書かなければならない。

二二八事件は、「三月大虐殺」と言い換えることもできる、台湾史上、最も凄惨な事件であった。政府の軍隊によって三万人の有望な人材を殺されたことは、台湾人にとって、今も忘れることのできない深い傷を残している。
このときの虐殺で、私の最愛の兄、育霖(いくりん)も犠牲となった。兄は私にとって、かけがえのない存在であったばかりでなく、台湾にとっても有用な人材であった。何より、兄自身が台湾のために働きたいという情熱を持っていた。かれは終戦後、そのまま京都地検に残るよう慰留されたが、母国の建設に役立ちたいと帰ってきたのだ。帰国してから、まだ一年しかたっていなかった。まだ二十九歳の若さだった。

兄のほかにも数多くの無実の知識人が、国民党のターゲットになり、残虐な手口で殺された。そして、生き残った者たちも、その後に続く白色テロに怯えながら生きることになった。

しかし、これほどまでの大事件でありながら、日本をはじめ諸外国の人で、二二八事件のことを知る人はほとんどいない。国民党政権が、この事件の真相が外部に漏れないよう、報道の規制を続けてきたからである。台湾人同士、二二八事件のことを語りあうことはタブーであった。兄の息子たちに対する思想調査はしつこく続けられたので、嫂(あねよめ)は下の息子が成人するまで二二八事件のことを話さなかった。二二八事件が語られるようになったのは、一九八〇年代後半のことである。

しかし、台湾人はこの事件を決して忘れることはない。

発端はヤミ煙草の摘発

いかなる歴史上の大事件も、そのきっかけは些細なことである。

一九四七年(昭和二十二)二月二十七日の夜、台北市大稲埕の盛り場で煙草を売っていた林江邁(りん・こうまい)という女性が、専売局のヤミ煙草の摘発にひっかかった。煙草を取り上げられまいと抵抗する彼女を警官が銃で殴りつけたため、野次馬がどんどん集まってきた。専売局の隊員は威嚇射撃をしながら、ジープに乗って逃走したが、そのとき野次馬の一人が撃ち殺されてしまったのである。

あたりは大騒ぎになった。群集は犯人の逮捕を要求しようと、大挙して警察局に押しかけた。日ごろから、政府のやり口に憤懣を抱えていた台湾人の気持ちが、このとき、爆発したのである。

翌日の日付で、兄が寄こした長い手紙にはおおよそ次のようなことが書かれていた。

「昨晩、大稲埕の『山水亭』で、陳逸松氏(弁護士。日本時代の台北市民選議員)や王井泉氏(『山水亭』の主人で、演劇界の重鎮)らと飲んでいるところへ、例のタバコ売りの女性の傷害事件が起こった。みんなで飛び出してデモ騒ぎを見物したが、街中の爆発的なエネルギーを見るに、必ずや大きな政治闘争に発展するであろう。われわれの時代は意外にも早く近づいてきたようだ。お互いに元気で頑張ろう。私は騒動にはまったくタッチしていないから安心するように」

翌二十八日も、多数 of 市民が集まって、デモ行進をしながら、専売局に押しかけた。犯人の処罰を求めたが果たせず、局内の摘発煙草や備品などを戸外に出して焼き払った。デモ隊は専売局の後、陳儀に陳情しようと、午後一時ごろ、行政長官公署に向かった。ところが、武器を持たない一般市民のデモ隊に対して、長官公署の警備兵は、いきなり機関銃による一斉掃射を加えたのである。デモ隊は逃げ惑ったが、多数の死傷者を出した。

しかし、これでひるむどころか、人々の憤激は頂点に達し、中国人と見れば殴りかかり、中国人の店舗を焼き討ちした。中国人が所有しているものは、かれらが台湾人から搾取したものばかりであった。

しかし、人々はそれらの品物を自分のものにしようとはしなかった。ある店の前で積み上げた品物の一つをポケットに入れようとした人が、他の人に咎められ、すぐに返したという話はよく知られている。日本時代に叩き込まれた道徳教育が身に染みついているのだ。中国人はそれを、日本奴隷教育だと嗤ったが、それはもう台湾人の特質になっていた。

午後二時ごろ、台北市放送局を占拠した人たちは、ラジオを通じて、台北市の状況を報告し、他の地域でもこれに呼応して立ち上がり、台湾から「ブタ(中国人を指す)」どもを追い出そうと呼びかけた。

午後三時、陳儀は戒厳令を布いた。軍隊や警察官が車に乗って市内を走りながら、いたるところで発砲し、多くの市民と学生が射殺された。市民には武器がなかった。

暴動はその夜のうちに台北県下の基隆(キールン)に波及した。

翌三月一日には、新竹、台中、彰化(台湾中部の都市)に、二日には、嘉義、台南、高雄、屏東(へいとう)(台湾最南部の都市)に拡大し、四日には東台湾にも波及した。

組織も計画もなく突発的に起こった暴動が、またたくまに全島に広がったのは、台湾人の鬱憤のエネルギーの大きさを見せつけるものであった。

三月一日、台北市民は自ら暴力を戒めて、秩序維持に努めようとしていた。青年たちは、逃げてしまった警官の代わりに市内をパトロールした。市参議会は議員や有力者を集めて、「煙草摘発不祥事件調査委員会」を組織し、陳儀に戒厳令の解除と、政府も加わった処理委員会の設置などを要求した。今回の蜂起を、公正な政治を求める運動にしようとしていたのだ。

陳儀は承諾し、二日に戒厳令を解除し、処理委員会に様々な分野から市民の代表を招いた。一瞬、民主的なポーズに思われたが、後になってわかったことには、陳儀は、各人物が政府に対してどんな考えを持っているかを知るために、その場を利用したのである。そして、八日から始まった大虐殺では、これらの人々が一網打尽に殺されたのである。

武力鎮圧を命じた蔣介石

三月二日、台北で処理委員会が開かれているころ、私のいる台南では新聞の号外版で台北市民の蜂起を知った人々が興奮で沸き立っていた。兄からの手紙はまだ届いていなかったので、私は兄のことが心配でたまらなかった。夜になると、青年たちが警察の派出所を襲撃した。警官は武器を放棄した。

三日には市民大会が開かれ、台北市民への支持、省政の全面的改革、市長の民選が決議された。中国人との小競り合いもあった。弟の育彬(いくひん)たちは、田舎での戦いに参加すると言い、武器を持って出かけていった。

四日、私は大正公園のあたりに行ってみた。この界隈の元州庁、参議会館、警察署、測候所などの建物は市民に占領されていた。多くの人々が街に溢れて興奮していた。中国人はすっかり姿を消してしまい、聞こえるのは台湾語と日本語の混じりあった声だけであった。

「自由平等!」
「打倒、貪官汚吏(汚職まみれの役人)!」
「要求自治!」

威勢のいいスローガンが台湾語で叫ばれ、日本の軍歌が歌われていた。台湾語の歌がほしいと私は切実に思った。

一年半のあいだ、中国人の横暴な政治に我慢させられてきたが、これからやっと少しは台湾人の権利も認めさせて、良い生活ができるのだという期待で、私たちは興奮していた。それは当たり前の要求で、それまでが間違っていたのだ。

その他の都市でも、大体同じ様子で、台湾人は、官公署、公営企業を接収し、中国人の店から物を持ち出して焼き払った。中国人は田舎や山へ隠れてしまった。台湾人は中国人を見つけると、殴りかかった。

そこで、中国人は台湾人になりすまして難を逃れようとした。それを確認するのに、日本語や「君が代」が使われた。日本語で答えられなければ、戦後来た中国人だとわかるのである。

三月四日には、台北で全省処理委員会が成立した。常務委員会を設け、その下に総務、治安、調査、交通、糧食、財務の各組を置いた処理局と、交渉、計画の各組を持つ政務局が作られた。

平和的な解決を求める委員会に対し、元日本軍人、青年団体、学生組織は、陳儀との平和的な交渉は無駄だと見て、即時全面武力抗争を主張した。

このとき、陳儀はすでに蔣介石に状況を報告し、増援軍の緊急派遣を要請していた。それに対し、蔣介石は一も二もなく武力鎮圧の命令を下した。陳儀への電文は「Kill them all. keep it secret(秘密裏に台湾人を皆殺しにせよ)」であったと、蔣介石の側近(侍衛官)だった翁元(あるいは曹聚仁)が書き残している(『侍衛官日記』)。

蔣介石は共産軍と戦う準備をしていた国民党軍二個師団をただちに台湾へ差し向けた。一方、陳儀は時間稼ぎのため、台湾人の要求を受け入れるような態度を見せていた。

処理委員会は楽観的すぎた。一年半ものあいだ、さんざん中国人のやり方を見てきたはずであるのに、ここへきてもなお、中国人のウソが見抜けなかったのである。

四日付の新聞「民報」にはこんなふうに書かれている。

「過去はもう言うまい。現実を見つめて緊急措置を講じ、有効な方策を実行に移していこう。旧いことは昨日で死んだ。未来は今日始まった。努力して前進しよう。光明の途(みち)を求めて」

三月七日には、大陸から軍隊が向かいつつあるとの噂が広がり、市民は震え上がってしまった。処理委員会は王添灯が起草した「三十二ヶ条要求」を採択し、陳儀に提出した。王はこれがすぐに実行されることはないと思いながら、遺言のつもりで書いたのだ。

私は、これを台湾人の「人権宣言」だと思っている。「三十二ヶ条要求」の骨子は、次の五つであった。

* 政府内においての台湾人の平等に関するもの。言論の自由。
* 個人の生命財産の安全保証に関するもの。
* 経済政策と経済行政の改革に関するもの。
* 軍事行政に関するもの。
* 社会福利問題に関するもの。

これだけの内容を混乱の中でまとめ上げたことからも、台湾人知識人の優秀さと層の厚さがわかるというものである。自分たちの手によって良い国を作りたいという切なる願いがひしひしと伝わってくる。王添灯は、このわずか数日後に殺された。

三月八日、陳儀は「三十二ヶ条要求」を拒否した。その夜から翌九日にかけて、中国国民党軍は続々と上陸を開始し、台湾人に対し無差別な殺戮を始めた。陳儀はその間に全島にふたたび戒厳令を布き、処理委員会をはじめあらゆる団体の解散を命じ、関係者の一斉逮捕を開始した。

三月十日のラジオ放送で、蔣介石の処理方針が示されたが、それは陳儀の暴政については一言も触れず、「暴動は共産党の扇動によるもの」と論断されていた。この放送で、初めて台湾人は蔣介石の本性を知ったのである。

大正公園での公開処刑
台南では三月十一日、国府軍が高雄港から進駐してくると、ただちに戒厳令を布いて、殺戮と逮捕を始めた。その荒々しさを見たときの市民の驚きは一通りではなかった。

その日、台南第一中学では平常どおり授業をやっていた。隠れていた中国人教師の授業は合同授業にしたり、自習させたりして何とか繕った。

昼近くになって、生徒たちがガヤガヤしだしたかと思うと、慌てて鞄を持って帰ろうとする者や、廊下をバタバタ走り回る者があった。教員室を飛び出して生徒の指さす方向を見ると、裏門の東門町へ通じる道を、中国兵が散開した戦闘体勢で学校へ向かって来るではないか。あれは何だ――一瞬恐怖にとらわれたが、学校は神聖な場所だし、この台南第一中学は暴動には関与していない。まさか乗り込んでくるとは思わなかったが、次の瞬間、私は校内を走り回って、

「みんな、教室に入っていろ! 柱の陰に隠れていろ! 顔を出しちゃいかん!」

と、大声を張りあげて注意した。

幸い、中国兵は私たちの学校には進入してこなかった。後で聞いたところによると、裏手にある台南工学院が目標で、かれらは日本時代の教練用の旧式の銃器を探し出してきて、二二八暴動に参加した証拠だと言って学校当局に難癖をつけたそうである。実弾の入っていない銃なら、全島の中学校にいくらでもある。しかも、それらは一年半も前の接収でちゃんと封印されているはずだ。まったく馬鹿げた言いがかりというしかなかった。

台南の処理委員会の委員長だった、弁護士の湯徳章(とう・とくしょう)は、台南市の暴動の責任を一身に引き受けた。かれは日本時代に警察官だったが、一念発起して日本に留学し、苦学の末、高等文官試験に合格して、弁護士になった気骨の士であった。かれが晴れて弁護士資格をとり、台湾に帰る船には、たまたまドレスメーカーでの勉強を終えた妻の雪梅(せつばい)が乗船していて、親しく言葉を交わしたことがあった。

湯徳章は中国人に尋問されても、他の委員の名前は一切言わなかった。三月十二日正午、湯徳章はトラックに乗せられて市内を引き回された後、大正公園で銃殺された。遺体はそのまま公園に放置された。人々は、かれの遺体とその番をする兵士二人から半径五メートルほどのところで取り巻いて見ていた。

大正公園に行った私は、生まれて初めて射殺死体を見た。かれは頭部に弾丸を受けていた。茶色の背広を着て、後ろ手に縛られていた。上半身はどす黒い血溜まりの中にあった。蠅がうるさく死体の顔にたかっていた。後ろから撃たれ、うつ伏せになっていたのを、足で蹴って仰向けにしたのだそうだ。「示衆(ししゅう)」といって、三日間こうやって見せしめにするとのことだった。

私は胸がムカついて吐きそうになった。足早に立ち去る私を追い越しながら、人々が、「中国人は本当にむごいことをする」「私はもう大正公園を通らない」と、小声で言い合うのを聞いた。

大正公園は台南の人々から「石像」と呼ばれて、夕涼みをしたり、野外映画会が催された想い出の場だった。それを、中国人はこともあろうに刑場にし、遺体の晒し場にしたのだ。

育霖兄の逮捕とその死

それからしばらくして、わが家に憲兵隊が踏み込んできた。かれらは父に機関銃を突きつけ、「部屋に案内しろ」と要求した。このとき、父は誰の部屋に案内したものか困ったという。わが家で捕まりそうなのは、私のほかに二人いた。日本から帰ってきた後、台南工学院の教授をしていた義兄、黄龍泉が、同校の二二八処理委員会の副委員長をしていた。育彬弟は、武器を手に学生仲間たちと郊外へ戦いに行っていた。

この日は姉婿が連行されていったが、幸いなことに釈放された。胸を撫で下ろして喜んだのも束の間、育霖兄が台北で逮捕され、消息がわからないという知らせが入った。

兄からは二月二十八日付の手紙の後、連絡がふっつりと途絶えていた。三月下旬になって、親戚(しんせき)の者が手紙で、兄が三月十四日ごろ逮捕されたようだと知らせてきたのである。

家では驚いて、台北に手紙を出したが、さっぱり返事がない。私は居ても立ってもいられず、台北に行こうと思ったが、私自身、いつ逮捕されるかわからない身である上に、戒厳令が布かれていて自由に動くことができなかった。

後に嫂(あねよめ)に聞いた逮捕の日の様子はこうである――。

三月十四日だったか、ある日の正午近く、四、五人の便衣隊(各種の宣伝や暗殺・破壊・襲撃などを行なった中国人の特殊部隊)が音もなく、兄夫婦の間借りしている家へ入ってきた。家中の者が呼び出されて、「きみが王育霖か」と一人一人、詰問された。かれらは逮捕令状も人相書きも持っていなかった。兄は一瞬青ざめたが、逃げ出すこともできず、自分は王育霖ではないとシラを切った。

ところが今度は一人一人身体検査をされた。兄は洋服の裏のネームを見つけられて、とうとう言い逃れができなくなった。

「ちょっと、いっしょに来てくれ」
「荷物はいらないのか」
「当分必要なものを持って来い」

嫂は震える手で兄を手伝い、トランクいっぱいに着替えを詰めた。兄はそれを重たそうに持ちながら、遠くに駐車したジープに押し込まれて連れて行かれた。嫂は相当長引きそうだと思う一方で、懲役ぐらいですむのではないかと自分を慰めたそうである。

兄が逮捕されたのには、偶然の要素も混じっていた。

逮捕される三日前、兄はカール氏(※ジョージ・カー、当時台北米国領事館副領事)を訪ねて、今後の見通しと身の処し方を相談していた。カール氏は「逃げろ」と言ったそうだ。先生自身、台北の街をジープで走りまわったとき、どこからともなく狙撃されて、危うく一命を落とすところだったという。

副領事のカール氏でさえ逃げる準備をしていたのである。兄がカール氏の忠告を聞き入れて、その準備をしていたかどうかはわからない。あるいは、自分は何も関与していないのだから逃げる必要はない、という呑気な気持ちでいたかもしれない。

三月十四日はカール氏が台北を離れる日だったので、兄は見送りに出かけたのだそうである。いったんは家を離れたが、途中で財布がないのに気がついて慌てて家へもどってきた。それから五分もたたないうちに便衣隊が踏み込んできたのであった。

もし、兄がもどってこなかったら、少なくともこのときの逮捕は免れることができたはずだ。機転のきく嫂のことだから、カール氏の家なり、知り合いの家なりに電話をかけて、兄にそのまま隠れているようにと注意するくらいのことはできたはずであった。

嫂はそれから夫の釈放を求めて台北市中を奔走してまわった。真っ先に泣きついたのが、新竹県長の劉啓光である。兄が検察官だったときの親交もあるし、遠い親戚でもあったからである。劉は「王太太(奥さん)、大丈夫です、必ず力になってあげます」と言ってくれたが、毎日同じ言葉を繰り返すばかりで、一向に本気で尽力してくれる気配がない。嫂は唇を噛み締めた。仕方なく、近くに住んでいた王白淵氏(文化界の大御所)に泣きついた。かれらだけでなく、嫂は、私もその名を憶えていないほど多くの人に助命を嘆願した。

三月二十三日ごろに、見知らぬ人が嫂に伝言を持ってきた。手渡された紙切れを見ると、兄のことづけで、「西門(せいむん)の西本願寺にいる」と書かれていた。持ってきた人は兄と同室だったが、かれは釈放されたのだそうだ。嫂はそれから何日も西本願寺の周りを歩きまわった。人を介して政府筋にも尋ねたが、

「王育霖など捕まえていない。どこかのゴロツキに攫われたのではないか」
と、とりつくしまがない。嫂は天を仰いで慟哭したという。

それから嫂は生まれたばかりの嬰児を背負って、噂を頼りに、台北市内、郊外のどこでも、兄の遺体を求めてさまよったという。今日は南港だ、明日は大橋頭だというふうに、遺体を見つけてあげたい一心で出かけていった。中国人の殺し方は残虐であったが、嫂は怖がりもせずに遺体の顔を一つ一つ確認した。

半年後、嫂は一切の奔走をあきらめて、まさに尾羽打ち枯らした哀れな姿で、二人の男の子を連れ、台北から引き揚げてきた。プラットホームでその姿を見るなり、私は思わず泣けてきた。

家に着くと、私は声をあげて泣き喚いた。父は半ばうろたえ、半ば怒って私を叱った。

兄がいつ死んだのか、今もってわからない。家族が遺体を確認したわけではないのだ。遺体が出てこないことから、当初、家族はかれがどこかで生存しているかもしれないと、信じようと努めた。火焼島あたりに流されて、いつかひょっこり帰ってきそうな気がした。

あの年の晩春のある夜、私は兄の夢を見た。かれは右後頭部から左眼窩にかけて、そして右のこめかみのあたりに銃弾の穴を見せて、微笑みながら私の寝室に入ってきた。白いワイシャツは血で汚れていた。かれはトランクいっぱいに服を詰め込んで持っていったはずだ。このひんやりした夜にワイシャツ一枚でいることはなかろうと、私は体を起こしてかれにそう言おうした。
すると、「徳、頼んだぞ――」。兄がそのような言葉をつぶやいたような気がした。次の瞬間、兄の姿は消え失せていた。

兄の夢を見たのは前にも後にもその一回きりであった。

私はこの夢を妻にも、娘にも話さなかった。私は、兄はすでに銃殺されたのだと一人、心の底であきらめた。実際に頭部に二発なら、ほぼ即死だろう。即死ならあまり苦しまずに死んだだろうと、それだけがせめてもの慰めだった。

私の家ではついに兄の葬式を出さずに終わった。遺体も遺骨もないのである。それに、仰々しく葬式を出すと、政府に対する腹いせと受け取られないとも限らない、という父母や他の兄弟の懸念もあって、寺で簡単な法要を営んですませた。

台北から引き揚げてきた嫂は、その後、王家の大家族の中で暮らすことになった。まだ二十六歳だったが、彼女は実家の母親から「女は一度嫁いだら、たとえ未亡人になっても決して再婚せず、一生貞節を守るように」としつけられていた。京都生まれの長男は四歳、前年の暮れに生まれた次男はまだ一歳にもならなかった。

なぜ、兄は逮捕され、殺されねばならなかったのだろう。私は今でもその正確な理由を知らない。新竹市長の汚職を摘発しようとしたさいのいざこざが、原因の一つになったのではないかと思われるが、何の理由もなく殺された人のほうが多いのだ。

事件後の四月一日、政府の機関紙「新生報」には、こう書いてあった。

「今次の事件は政治改革の要求でもなければ、いかなる種類の暴動でもない。それは日本教育を受けた者たちのハネ上がりであり、日本精神の余毒が祟りをなしたものにすぎない」

日本精神の毒素を取り去るために、国民党は日本時代に育った台湾人を消したのだろうか。

この事件で殺された人の数は約三万人と言われている。今でも、その数ははっきりわかっていない。当時の台湾の人口は六百万人であったから、人口の〇・五%が殺されたことになる。日本の人口一億(一九六五年当時)に当てはめれば、約五十万人が殺されたことになる。戦地でもない社会で、一ヶ月のあいだにこれだけの数の住民が、政府の軍隊によって殺される恐怖は筆舌に尽くしがたい。しかも殺されたのは、罪人でも悪人でもない、善良な知識人や青年たちであったのだ。数が失われただけではない。質もまた失われたのである。

一方、中国人側の損害は、死者三百九十八人と発表された。

恐怖政治の始まり

二二八事件の中国人のあまりの残酷さに、台湾人は胆をつぶしてシュンとなってしまった。もはやインフレも失業もたいした問題ではなかった。命をつなぐことができれば、それだけでも天に感謝しなければならないという気持ちであった。あとは身近なところに、ささやかな幸福を見つけて、憂き世をまぎらわすことである。

しかし、中国人に対する憎悪と敵愾心は、深く心に刻まれた。いつか絶対に、中華民国のくびきから離れて、台湾人自身の独立国をつくるのだという思いは、堅い誓いとなって私の胸の奥にしまわれた。

二二八事件の後も、政府による情け容赦ない弾圧は続けられた。国民党政府は、もはや遠慮しなかった。共産主義者であろうと、独立を願うものであろうと、反政府的な考えを持っている者は誰でも、捕まえ、拷問し、投獄し、処刑した。この恐怖政治は長期にわたって続けられることになった。

蔵書を調べられたら、どんな言いがかりをつけられるかわからないので、妻の兄たちが田舎にある家に運んで、天井裏に隠してくれた。私はもう自由に脚本を書くこともできず、一中学教師として暮らしていくしかなかった。

二二八事件の後、台湾のインテリは多かれ少なかれ神経過敏になっていた。「禍、口より出ず」の中国の諺をしみじみ噛み締めることになった。身から出た錆ならまだしも、身に覚えがないのにピストルがお迎えにくることもあるのだ。

訪問客を気やすく家に入れてはいけないとか、ときどき靴紐を直すふりをして、特務に尾行されていないか気を配れ、と言われた。

ライバルを陥れることは簡単だ。
「〇〇氏は共産党員だと思われます」
「××氏は独立思想を持っています」

と書いた紙切れを投函するだけで、ライバルを地上から葬り去ることができるのである。警察は、「怪しい者一人を捕まえるために、百人の疑わしきを捕まえてもかまわない」と豪語していた。

教師生活

台南市の東のはずれにある台南第一中学までは、家から歩いてもせいぜい二十分弱だが、通勤途上の停仔脚の商店街は、ところどころ爆撃で壊されたままになっていて、大いに利用価値を減じていた。[マホガニー](※空白部分)の並木のある道は、小枝が薪がわりに切られてしまって、たいした緑陰をつくらなくなった。

家の前の本町通りは、戦後は三民主義の一つをとって、「民権路」と改称された。牛車の重い鉄の轍(わだち)のために(日本時代には一定の制限があった)、アスファルトは醜くはがれて、デコボコがひどくなった。

中国式に二時間になった昼休みには、中国人の先生たちは、日本人から接収した学校付近の宿舎に引き揚げて昼寝をする。初めのうちは生徒に悪いような気がしていた台湾人の先生方も、だんだんと真似をして、いったん自宅に帰る人が多くなった。私もそうするようになった。その往復で四、五十分もとられては、せっかくの昼寝も落ち着いてできないので、私は自転車を利用するようになった。

半年前に、月給が八万元のときに七万元を出して買った自転車も、自転車屋から聞いたところでは、今は百二十万元はするという。今月の給料はたった六十万元である。二二八事件の後もインフレは止まることはなかった。

教育処の規定では、中学の専任教員は朝八時から午後五時まで、昼休みの二時間を除いて一日七時間勤務となっている。私は遵法精神の強い台湾人の一人であったから、最初のうちは、まじめに規則を守った。ところが、中国人の先生は、授業のときにしか姿をみせない。それでいて校長も叱らないので、私を含めて台湾人の先生方もすぐに「中国化」してしまった。

昇旗礼(朝礼)に出ないことも多かった。勤務評定は芳しくないだろうが、かまわないという気持ちであった。

実のところ国歌は歌う気になれなかったし、国旗を見るだけでムカムカした。高中部(高校生)の生徒の中には、知らん顔をして突っ立ったままの生徒が多かった。訓育主任が回ってきて小突いて歌わせようとする。

「三民主義、吾党所崇……」と歌詞にあるが、発音をもじって「専門取利(ツアンムンツウリ)」と歌う者もいたし、「民」の字をわざと「眠」に書き違えて笑う者もいた。

先生や生徒の中にも特務(中国人スパイ)がいて、学校の中でも目を光らせていると言われていた。

私は家庭を持ったことでもあり、おとなしくしていようと思った。それでも反骨精神が頭をもたげてくる。私は授業中に政治を風刺したり、皮肉ったりして、生徒たちとささやかな喜びを分かち合っていた。

また、私は歴史や地理の時間に、それとなく台湾人意識を鼓舞するようなことを話した。授業も中国語でなく、わざと台湾語を使った。台湾語はリズミカルで、微に入り細を穿つ表現が豊富なので、歴史を語るのに適しているのだ。

私は生徒たちに、台湾人として持つべき自覚、正義とは何かをやさしく、面白く聞かせて、少なからざる影響を与えることができたようである。当時の教え子の一部は、今、留学生としてアメリカや日本で台湾独立運動をやっている。

「共産党支部」からの秘密文書

二二八事件の後しばらくして、私の家に、私宛てに秘密文書が届くようになった。一通、また一通と、誰がいつ、どうやって家の店舗の扉のすき間に入れるのか知らないが、広い家で私だけを名指ししてあった。

開けてみると、「共産党支部」といったような差出人である。私はそれをこっそり読んで興奮し、一方で不安の念にかられた。これは出している方も、読む方も、命にかかわることである。私は何と勇敢な人がいたものかと感心した。かれらは家に逼塞(ひっそく)してしまった私より、ずっと勇敢で、現に国民党政府転覆を目指す仕事をやっている。私は、かれらに見込まれたことを少々誇らしく思いもした。

しかし、それが度重なってくると私は怖くなった。これは必ずいつかバレるにちがいない。バレたら逮捕されて銃殺となることはわかりきっている。こんな怪文書を受け取っただけで銃殺になるのはバカらしいと思った。また、こう次々に送られてくるのは、あるいは国府が仕掛けたワナではないかとも思われた。国府がやっているから、間違いなく届けられるのかもしれなかった。

しまいには、私は面倒くさくなった。書いてある内容も、きまりきっていた。勇気を出すだの、国府の崩壊は近いだの、組織に入れだのと書いてある。組織に入れといっても、少しもそれらしき人物が姿を現さなかった。
これ以上送ってもらいたくないと思っているうち、いつの間にか来なくなったので、ホッとした。しかし、怪文書に狙われたことは、いつまでも心の負担となった。

私はこの心配を誰に打ち明けたものかと迷った末、一番親しくしている中国人である蘇校長を選んだ。ある日、勇気を出して、校長室へ相談に行った。
「王先生、あなたの心配はよくわかります。しかし、私の力ではどうにもなりません」

事情を聞いた校長は言った。

亡命

「では、捕まえに来るのがわかったら、前もって知らせてくださるだけでも有難いのですが」

「それがそうもいかんのですよ。ほら、英語の林傑先生がいたでしょう」
「ええ、一ヶ月前に辞められましたね」

「辞めたのではないですよ。宿舎で逮捕されたのです。共産党だということで」

「え! 少しも知りませんでした。本当に共産党員だったのですか」

「それは知りませんね。外国地理を教えた林祖平先生と黎清先生を知っているでしょう」

「ええ、仲良くしていましたが、二週間前に辞められました」

「かれらは学校の中で逮捕されたのです。一人は教室で、一人は教務処で」
私は溜め息をつくばかりであった。校庭に出て、私は天を仰いで心の底から嘆いた。

事が起こったのは、終業式も間近の一九四九年(昭和二十四)六月末の土曜日のことであった。

土曜日は生徒たちの「週記簿」を返す日であったが、その日の朝、職員室の私の机の上にあるはずの、高中三年の百二十冊の週記簿が見当たらなかった。用務員に尋ねると、「校長先生が見たいというので、持っていきました」と言う。

これはまずいことになった。週記簿は生徒の思想動向をチェックし、指導するためにある。高中三年といえば、感じやすい年ころの青年たちで、その心情を真正面からぶつけてくる。台湾人同士の私と生徒のあいだでは、交換日記のように心情を吐露し合っていたのだ。それを、校長に見られては万事休すである。

私は自分の不注意を悔やみながら、重い気分のまま教室へ向かった。

出席をとると、昨日から休んでいる陳文生が今日も来ていなかった。二二八事件のときに中国兵に袋叩きにされたことが原因で、ぐれてしまった生徒だった。

「また無断欠席か」。私が言うと、思いつめたように班長が立ち上がった。

「陳は捕まりました」

「なんだと?」

「一昨日、特務に捕まったのです」

「それでどうなった?」

「台北の警備総司令部へ連れて行かれたそうです」

「なぜ早く知らせなかったんだ?」

週記簿の件に続く衝撃であった。校長が週記簿を見たがった理由もこのへんにあったのだろう。

「陳君のお父さんが、学校に知られると除籍されるのではないかと心配するものですから」

教室の中が、ざわめいているのを宥めたが、私自身が一番動揺していた。なんとか落ち着いて外国史の授業に入ろうとしたとき、用務員が私を呼びに来た。

「至急の面会人です」

授業中に面会を取り次ぐのは異例のことだ。こんなにも早く逮捕の手が回ったのか……。教室を出て廊下を歩くうちに、手足が震えてきた。中央階段の上から恐る恐る下を覗いてみると、待っていたのは憲兵ではなく、弟の育彬だった。

「なんだ、おまえか、驚かすなよ」

「施坤彬(シー・コンピン)[黄昆彬]が捕まった」

安堵の溜め息をつく暇もあたえず、育彬が切羽詰まった形相で近づいてきた。よほど急いできたものと見えて、シャツが汗でびっしょり濡れている。あたりに人がいないのを確かめてから、育彬がささやいた。

「えっ! 本当か。いつのことだ」

「三日前。隠れていた新竹の田舎で捕まったそうだ。さっき仲間から手紙で知らせてきた」

弟は顔の筋肉をピクピク痙攣させて泣き出しそうだった。

施坤彬[黄昆彬]は育彬の親友で、私の演劇仲間であった。教え子と施坤彬が相次いで逮捕されたことが、次に何を意味するのかは明々白々であった。
「早く逃げたほうがいい」

育彬に言われるまでもないが、学校はどうしよう。いっそのこと教壇に立ったまま引きずられていってやろうか。その方が劇的で、生徒たちを発奮させるだろう。私が死んでも、後に続く若者を育成できるかもしれない。一瞬、

妻や九ヶ月になる娘のことが頭をよぎった。

教室にもどると、ざわついていた生徒たちは私の様子に何か感じとったらしく、静まった。

「今学期の授業も間もなく終わる。先生がいなくても、ちゃんと自分で勉強しなければならない。外国史の範囲はほとんど終わった。試験はノート一冊で間に合うだろう。お互いに台湾のため、六百万島民が幸福になるために頑張ろう。わかったね」

私は教壇を行きつもどりつしながら、別れの言葉の代わりに、こういう告別の辞を述べた。

鐘が鳴った。私は敬礼もそこそこに職員室にもどると、急いで引き出しを整理した。教科書は机の上に揃えておいた。図書館の本は全部返却してある。合作社(校内の消費組合)にも借りはないはずである。用務員を呼んで、頭痛がするから次の時間は自習にすると伝えると、私は大急ぎで自転車置き場に向かった。

おそらく二度とこの学校にもどることはあるまい。いや、卒業式まで待とうか。生徒が可哀想だ。一瞬迷ったが、それを振り払い、私はペダルを漕いだ。

家に帰ると、帳場で筆を耳に挟んで盛んに算盤をはじいていた父に「ただいま」と昔からの習慣で日本語で声をかけ、私は奥の棟の二階にある自分の部屋に上がった。女中に、台所にいる雪梅(せつばい)と娘を呼びにいかせた。雪梅は私の顔を見ただけで、ただならぬ気配を感じとったようだ。

「施坤彬[黄昆彬]が捕まったんだ」

「まあ、本当?」

「予定どおり実行しよう。私はまだ死にたくない。奴らの最後を見届けてやらねば気がすまない。今は逃げるしかない」

こんな日が来るかもしれないと、前から話し合っていた。

「田舎? 香港?」

「もちろん香港に行く」

「田舎じゃ、だめ? そうしたら、いっしょに行けるわ」

「田舎は安全じゃない。施坤彬は田舎に二ヶ月隠れていたのに捕まったんだよ」

香港には前年に邱永漢(きゅうえいかん)が移り住んでいて、手紙をくれたり、訪ねてきては「きみも早く台湾を脱出して香港に来いよ」と言ってくれていた。英国領は中英協定により、中華民国の身分証があれば、自由に出入りできるのである。

しかし、私の目的地は香港ではなかった。香港を経由して日本に亡命することを考えていた。だが、日本に行くためのパスポートやビザを申請するわけにはいかない。そんなことをしたら、自ら「逃亡の可能性あり」と宣言するようなものだ。香港なら、出入境許可証を申請すれば、二十四時間以内に許可が出る。

私は娘を抱いて、ほっぺたにキスをした。淑芬(スープン)[長女・曙薫(あけぼのかお)]という名は私が考えた。台湾の明るい夜明けを祈願して、「曙薫る」日がいつか来るようにと。

それにしても、罪になることもしていないのに、愛する妻や娘を置いて生まれ故郷を去らねばならぬとは。「乞食趕廟公(キチアコデビオコン)」とはまさにこのことだ。

「いつごろ、帰れるの?」

「そう長くはないと思う。一年くらいだろう」

国民党政府もそう長くはもつまい。大陸では、共産党に負け続けている。アメリカは国民党内部の腐敗に愛想をつかして援助を打ち切るらしい。そうなれば、国民党政府は崩壊する。せいぜいあと一年しかもたないだろう。

逃亡の費用は、雪梅が実家の親兄弟に頼んで工面してきてくれた。飛行機のチケットも妻の兄が手配してくれた。私は「夏休みを利用して香港旅行をする」という名目で、出入境許可証を無事取得することができた。

学校が休みに入った最初の日、私は飛行機で香港へと飛び立った。もう二度と台湾の地を踏むことができないとも知らずに。

一九四九年七月四日。雲一つない静かな夏の午後であった。


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