令和2年7月30日夜、台湾の李登輝元総統が亡くなられた。今年2月、体調を崩して以来、療養中であったが、家族に見守られながら97年の生涯を閉じられた。
謹んでご冥福をお祈りするとともに、四半世紀近くにわたり受けた数々のご指導に心から感謝申し上げたい。
最初にお目にかかったのは1997年だったか。李登輝氏ご自身の誕生会と記憶している。台湾出身の世界的なオペラ歌手やピアニストとともに、日本の童謡を参加者全員で歌う会は、毎年恒例の趣向だという。「春のうららの隅田川~」「うさぎ追いし、かの山~」と、夜がふけるまで、歌い続ける楽しい会だった。最愛の妻であり、夫をプロテスタント入信へと導いた文恵さんや誕生会に集まった友人の皆さんも、和気藹々(あいあい)と歌い続けた。
会での共通の言語は日本語。李登輝氏と文恵さんとの日常会話も日本語だ。「夫婦げんかの時は、特に日本語ですよ。ねえ、文さん」と、楽しそうに話されるご夫妻からは、けんかする様は想像できなかった。
「22歳までは日本人だった」と李登輝氏はかねてから語っておられる。日本名は岩里政男だった。
高校時代に新渡戸稲造氏の「武士道」に感化され、「日本の伝統的価値観の尊さ」を学んだと、数時間にわたって話された。聴衆は私一人で、もったいない気がしたが、その後、「『武士道』解題」で指導者のあり方、ノブレス・オブリージュについて著書にまとめられた。
台湾総督府民政局長を務めた後藤新平氏(第7代東京市長)や台湾のダム建設など治水事業を牽引(けんいん)した日本人技師、八田與一(はったよいち)氏などの業績を詳しく聞いたのも、李登輝氏からだった。日本の教育現場ではほとんど教えられることのない歴史である。
李登輝氏は、彼らの築いた実績や考え方を、楽しげに、そして誇らしげに語ってくださった。日本の歴史を、これほど詳しく、楽しく教えてくれたのは李登輝氏をおいていない。
李登輝氏の博覧強記ぶりは有名だが、大変な凝り性でもある。大渓の別宅には大好きなゴルフのセットがずらりと並ぶ部屋、すべての岩波新書が並ぶ図書室など、とにかく徹底している。最後にお会いした頃の関心事は人工知能と「出エジプト記」だった。
李登輝氏について、最も思い出深い出来事は99年9月に台湾中部を震源に起こった921大地震の時。当時、李登輝氏は現職の総統である。95年1月の阪神大震災で住居を失った被災者のための仮設住宅が、恒久住宅の建設にともなって役目を終えた頃だった。私は台湾での地震発生を知り、神戸の仮設住宅が再び役に立つと考え、手元にあった仕様書を台湾に送った。
早速、反応があった。発災直後は救命救助が優先されるものだ。かえって足手まといになってはいけないと、10月に入って台湾に向かった。
総統府で震災のお見舞いを伝えると、「被災地へ一緒に行こう」との流れになり、総統の特別機に同乗した。驚いたことに、現地の公園には、私が送った仮設住宅の仕様書通りにくいが打たれ、いつでも建設に入る準備が整っていた。一介の衆議院議員が送った資料だったが、迅速で、徹底した対策ぶりに感動した。「これは『雪中送炭』だ。感謝する」との声もいただいた。必要な時に、必要なモノを支援するという意だ。
さらに、被災した台中日本人学校にも訪れた。代替地には精糖会社の跡地を活用する話も李登輝氏の協力とともにトントン拍子で進んだ。
移築された新しい台中日本人学校には、その後、議員の仲間と訪問し、記念に桜の木を皆で植樹した。きっと学び舎から巣立った子供たち同様、大きく育っていることだろう。
地球儀を俯瞰(ふかん)しながら、人々の心のひだを読み取る大切さ。指導者のあり方を体現された李登輝元総統にあらためて感謝の念を表したい。
安らかにお眠りください。
原文出處 產經新聞