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不在説の波紋 比類なき生涯も実像は謎多く


すぐれた徳(聖徳)の皇子と呼ばれ、長く日本人に愛されてきた飛鳥時代の皇族がいる。聖徳太子。誰もが知る飛鳥時代の偉人で、一万円札の顔としても親しまれた。今年は1400年遠忌に当たり、ゆかりの寺院では法要が営まれる。

太子といえば十七条憲法や遣隋使の派遣で知られる政治家・外交官で、仏教の保護者として最澄や親鸞ら後世の名僧が敬愛した思想家でもあった。「和をつなぐ」では脈々と受け継がれてきた太子信仰を紹介し、コロナ禍の今こそ見直したい「和の精神」を考える。第1部では、その人物像をめぐる謎を追った。

〈用明天皇の皇后、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は4人の皇子を産み、その第1子を厩戸(うまやと)皇子と申し上げる。この皇子ははじめ上宮(うえのみや)に住み、のちに斑鳩(いかるが)に移られた。推古天皇の御代に東宮(とうぐう・皇太子)につき、国政をすべて執り行って天皇の代行をなさった〉

日本書紀が伝える厩戸皇子こと聖徳太子だ。

厩の前で生まれ、生後まもなく言葉を話し、成人すると一度に10人の訴えを聞いても聞き分けることができた。さらに、冠位十二階や十七条憲法を定め…とその事績は華々しい。

伝説も含め、広く世に知られるところだが、近年、学問の世界ではその実在性が揺らいでいる。教科書表記の聖徳太子を厩戸王に変更しようという動きもあった。

原文出處 產經新聞