中国語映画界のスポットライトの下、李駿碩(ジュン・リー)監督の『眾生相』(英題:The Crowd / Queerpanorama)は、金馬奨5部門ノミネートという確かな実力をもって、表現の限界に挑むインディペンデント映画であるだけでなく、本年度最もテキストの深度があり、かつ論争を呼ぶ「ダークホース」であることを示した。本作は、慣習的な社会リアリズムやロマンティックな情緒から離れ、ある都市の病的な心理構造へと深く切り込んでいく。それは「22年後」――つまり香港主権移譲から22年が経過し、重大な社会的転換とそれに続くパンデミックを経た時代背景の下で――集団的トラウマと「抵抗しても無駄である」という虚無感の中で、香港の若者世代が選んだ、極致的かつ私的な生存の身振りを精確に捉えている。
これはポルノグラフィではない。これは、香港の時代精神(ツァイトガイスト)が崩壊していく様を記した病理報告書である。
I. アイデンティティの流動性:香港集団の「離人症(人格解体)」
映画の中核となる物語装置は、無名、無職で、絶えず浮遊する空っぽの抜け殻のような主人公が、セックスの後の会話を通じて、パートナーのアイデンティティ、言葉、職業を体系的に盗用していく点にある。肉体の連結の一つ一つが、アイデンティティの「採集」と「転嫁」となるのだ。
ポストコロニアルの無根拠性(Rootlessness): この無限に流動するアイデンティティは、香港のポストコロニアルな歴史が残した問題を直接的に指し示している。この都市は確固たる自律的な「エス(本我)」を持ったことがなく、植民地支配と主権移譲の狭間で、与えられた役割を演じ続けてきたに過ぎない。主人公の行動は、まさにこの「離人症(Depersonalization)」の隠喩である。政治と歴史が「あなた」を定義できない時、個体は自己を徹底的に切り離し、絶えず変動する、脅威を持たない「衆生(群衆)」の一部となることを選ぶのだ。
「寝そべり(Tang Ping)」の究極的体現: 巨大な挫折を経た後、「抵抗は無効である」という虚無感は、香港の若者世代に精神的な「寝そべり」を促した。主人公はこの心理状態の極端な体現である。世界を変えられないのなら、真実の自己になることを放棄し、自らを単なる「情報の中継ステーション」へと格下げする。都市の無数の個体が抱える断片的な焦燥を受動的に受け取り、伝達するだけで、自らの声を発することは決してない。
II. 政治的情事(フックアップ):肉体における情報とトラウマの交換
『眾生相』における性愛は、伝統的なロマンチシズムや純粋な欲望を徹底的に剥ぎ取られ、一種の「政治的情事(Political Hookup)」へと変容している。その核心的機能は、交換、確認、そして発散(カタルシス)である。
情報の交換所: 性交後の会話は、主人公が唯一集中する瞬間である。彼はセックスをしているのではなく、一つの都市と、ある種の集団的焦燥と「デート」をしているのだ。公共空間での政治的議論が抑圧された時、個人の不安と葛藤は最も私的な寝室へと押しやられ、「地下交流」が行われる。肉体の連結は、最も短期的で、最も責任を負う必要のない交換メディアとなる。
偽りの連帯感: このような「情事」によって築かれる繋がりは、SNSの「いいね」文化のように、短期的で代替可能なものである。それは、誰もが似たような苦境に直面しているがゆえに、「私は孤独ではない」という錯覚を個体に与える。しかし、この偽りの親密さは集団的行動の力には転化せず、単なる個体化された、感情的な政治的発散に留まる。
III. ループする宿命:モノクロ映像下の時間の終焉
映画が全編モノクロと多用される固定ショット(フィックス)を採用したことは、美学的な疎外感を高めるだけでなく、記号レベルにおいて「時間感覚」を残酷に終わらせている。モノクロームは、都市における希望の彩度を抜き去り、冷厳な抑圧だけを残す。
終わりのない円環: 構造上、物語の結末は冒頭へと回帰し、主人公の彷徨が終わりのないループであることを暗示する。これは「香港の未来性」に対する最も悲観的な予言である。過去の栄光と未来の希望が塗りつぶされた時、すべての努力と足掻きは、絶えず反復し、逃れることのできない「今」に幽閉される。
抵抗の無効化: ループする宿命の中で、「変化」は身の程知らずな望みとなる。これは「抵抗しても無駄」という哲学的基調を強化し、個体を「線路に横たわる(寝そべり)」という選択へと駆り立てる。肉体の慰めと偽りのロールプレイの中に、最も軽やかで、最も無責任な生存方式を求めるのである。
IV. 詳細の解読:3人のDNAと「未来の子」の政治的寓話
映画における最も深遠かつ未来的な記号は、主人公が科学者の言葉として語る「3人のDNAがあれば、先天的な病気を持つ人の欠陥を補うことができる」という話だ。この一見何気ない台詞は、彼が絶えず行っている「政治的情事」に対し、強烈な皮肉を形成している。
同性愛者の生殖権と法理的欠陥: 香港の「国際都市」と「法理的保守」という板挟みの地位において、同性愛者の生殖権(すなわち「家族」と「未来」に対する合法的な訴求)は、常に法的空白あるいは排除の状態にある。この「法理上の欠陥」は、遺伝子の欠陥よりも遥かに巨大である。
「未来の子」への問い: 最終的な問いはこうだ。我々は、法理が制限され、集団的トラウマに満ちたこの都市で、前代の「トラウマ遺伝子」を持たない「未来の子」を、合法的かつ安心して育むことができるのだろうか? 新生への渇望は、ループする宿命と、承認されない法的枠組みの中に封じ込められている。
『眾生相』の芸術的達成は、個体の最も私的な性愛を、集団的な政治的運命への深刻な問いへと昇華させた点にある。モノクロの疎外感をもって、本作は「22年後」の香港を暴き出す。それは、「政治的情事」の中で孤独を交換し、ループする宿命の中で集団的に「線路に横たわる(寝そべり)」ことを選んだ、衆生の姿である。
