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Maitreya Bear 映画評:台湾人は「一恩報十」を履き違えてはならない ——『大濛』最終章レビュー


鳩居(きゅうきょ)の優雅:犠牲者のベッドに横たわる范春の「寄生美学」

映画『大濛』の後半、反派の特務頭領・范春(ファン・チュン/陳以文 飾)は、極めて冷静で、かつ吐き気を催すような「略奪」を披露する。そのシーンで、彼は取調室で鞭を振るっているのではない。自らが捕らえ、おそらくは既に亡き者にしたであろう医師のベッドに、悠然と横たわっているのだ。

彼は医師が愛聴していたクラシックのレコードを聴き、本来は台湾の知識層のものであった優雅な生活を享受し、さらには手を伸ばして、まだ眠りの中にいる医師の幼い子供をゆっくりと撫でる。これは単なる悪行ではない。極めて深い階層における「権力の寄生」である。范春はその瞬間、相手を殺しただけでなく、相手に成り代わっているのだ。

彼は家庭の最もプライベートで安全な砦である「寝所」に強引に侵入し、自らを一家の主人のように偽装する。この「悠然さ」は恐るべき心理を反映している。すなわち、略奪者は自分を侵入者だとは微塵も思っていない。生殺与奪の権を握っている以上、相手の音楽、妻、子供、さらには社会的地位までもが、当然の戦利品であると考えているのだ。

これこそが、かつての権威主義体制が台湾に渡来した際の集団的投影である。彼らは台湾固有の社会エリート構造を破壊した後、相手の応接間に座り、相手のスーツを着、さらには相手の口調を真似て文化を語った。陳以文は、支配に満ちながらも極限までリラックスした演技で、この「凡庸な悪」を正確に捉えきった。

それは『羊たちの沈黙』でアンソニー・ホプキンスがバスケットコートの中央に隔離されていたシーンを彷彿とさせる。暴力美学の極致ともいえる、内臓を抜かれ十字架上のキリストのように吊るされた警備員の姿。ホプキンスはその警備員の警棒を手に取り、まるでものを弄ぶかのように、鉄格子をゆっくりとなぞる。

最後、ホプキンスの口元がアップになる。子供が食事の後に拭き忘れたかのように、そこには警備員の心臓や肝臓、そして鮮血が残っている。暴力がこれほどまでに優雅に振る舞われるとき、被害者への屈辱は頂点に達する。この「ベッド」は去勢された故郷を象徴し、范春がそこに横たわることは、台湾人の魂の尊厳に対する最も徹底的な蹂躙である。

無知と洗浄された記憶:子供の頭を撫でる「慈父の手」

范春の掌の下で安らかに眠り、全く目を覚まさない子供の姿は、全編を通じて最も戦慄を覚える政治的比喻だ。この子は、1949年以降の血みどろの「大濛(深い霧)」の中で生き残り、真実の記憶を失った何千万もの台湾人を代表している。

子供は知らない。今自分を撫で、温もりの幻想を与えているその手が、つい先ほど実の父親の銃殺命令に署名したばかりであることを。これこそが、国民党政権が台湾の次世代に対して取った戦略だ。「根を断ち、脳を換え、心を収める」。受難者である父世代が消された後、統治者は翻って「厳父」と「慈父」の二役を演じ始める。

教育、メディア、社会資源の分配を通じて、血の海の中で育った子供たちに「今、飯が食え、ベッドで寝られるのは、すべて范春たちの恩寵だ」と誤認させる。これは一種の政治的な「認賊作父(じぞくさふ:仇を親と仰ぐ)」である。子供が大人になったとき、ベッドで一緒に音楽を聴いてくれた「おじさん」がいかに温厚だったかを覚えているかもしれない。しかし、自分を守るために本来そのベッドにいるはずだった実父の遺骨が、どこの荒野に埋まっているかを知ることは永遠にないのである。

この記憶の断層は、台湾社会に長く続くストックホルム症候群をもたらした。私たちは自分を幽閉した者を愛し、残り物を施してくれる略奪者に感謝するようになった。范春の腕の中にある子供の安らぎは、実はこの島の最大の悲哀である。仇が誰かも分からなくなったとき、いわゆる「平穏」とは、まな板の上の鯉となる前奏曲に過ぎない。この「慈父の手」が撫でているのは未来ではなく、去勢された後の従順さである。

歪められた「一恩報十」:善良さが権力に取り込まれる悲劇

台湾人の性格には「食人一口、還人一斗(ひと口の恩に一斗で報いる)」という素朴な道義感がある。本来は隣人同士が助け合う美徳だが、権威主義的統治の下では、この美徳が最も皮肉な自縄自縛の枷となった。范春に象徴される国民党とその一派は、この善良さを利用し、「略奪した資源の再分配」を「天大な恩義」へとパッケージし直した。

彼らは土地を奪い、財産を奪い、自由を奪った後、その1パーセントを地方派閥への報酬や民衆への恩恵として分け与える。すると、多くの台湾人が錯覚を起こす。「政府が仕事を与えてくれた、秩序を守ってくれた、だから恩返しをしなければならない」と。この報恩の心理が受恩者を共犯者に変える。彼らは、真実を暴き民衆を目覚めさせようとする同胞を、この「報恩」の熱情をもって迫害する側に回るのだ。

その「ひと口」が、もともとは自分の体から切り取られた肉であったことを忘れ、「一斗」を返す過程で、自らの魂と良心までも差し出してしまうのである。

このロジックは今なお台湾の草の根に深く根付いている。選挙の際、食パン一袋やトイレットペーパー数パックで魂が買われてしまう現実。有権者を使い捨てにする施しや、地方の有力者への一時的な利益供与だけで、政府を監視する責任も、民主主義のために犠牲となった先烈も忘れ去られる。この「ひと口の恩」に縛られた卑屈さが台湾人の視野を狭め、背後で冷笑する范春の姿を隠してしまう。略奪者の分配を救済と勘違いしてはならない。真の報恩とは、この土地のために血と汗を流した「父世代」に報いることであり、私たちのベッドに座り、音楽を盗み聞きしている「泥棒」に報いることではない。

現代の「認賊作父」:蒋介石の養子から黄国昌の「乾親」まで

この「賊を父と仰ぐ」芝居は、戒厳令解除とともに消え去ったわけではない。むしろ現代政治において、より荒唐無稽な形で上演されている。歴史上、蒋介石は権力基盤を拡大するために養子を取り、他人の子を自らの陣営に組み込み、政権維持の道具とした。

これは映画の中で范春が医師の子供を取り込もうとした手法――権力の遺伝子転移――と同じである。そして最も痛ましいのは、現在の政治家の堕落だ。最近、王偉忠が黄国昌を「乾息子(義理の息子)」とし、黄国昌がそれを快諾した現象は、まさに現代版の「范春による収編」に他ならない。

王偉忠は旧時代の、大中国イデオロギーに依存したメディア利権を代表する人物であり、一方で黄国昌はかつて時代の寵児として体制打破を宣言した改革者だった。一人の改革者が権力への近道や資源分配のために、かつて軽蔑した体制の「ベッド」に座り、かつての既得権益層と兄弟・親子の契りを結ぶとき、彼は大人になって「范春に変貌した」子供となる。

黄国昌の「快諾」は、台湾の民主化プロセスに対する最も深い裏切りである。これは個人の没落にとどまらず、社会に対して「利益さえ大きければ、仇も父親になり、略奪者も施し主になれる」というメッセージを発信している。これこそが「一恩報十」の最も邪悪な変種である。ひと口の権力の飯のために、一生の品格と良心を差し出し、自分を支持した群衆をも連れて范春の懐へ飛び込むのである。

最終的な覚醒:蔡昌憲の犠牲を無声の嘆きに終わらせるな

『大濛』において、蔡昌憲(ツァイ・チャンシェン)が演じる特務の役柄は、もう一つの「台湾の魂」を体現している。彼は医師の妻の幼馴染であり、范春の偽善を見抜き、あの「慈父のなで肩」の裏にどれほどの罪悪が隠されているかを知っている。彼は最も険しい道――暗殺――を選んだ。結局は失敗し、命を落とすことになったが、彼の行動は奪われた家を取り戻すためであり、仇の腕の中で眠る子供を呼び起こすためのものだった。

蔡昌憲の犠牲は、范春の優雅さと強烈な対照を成す。一方は暗闇の中で立ち上がった孤独な勇者であり、一方は奪い取ったベッドで享受する寄生虫である。もし私たちが今日、いまだに誰が范春で誰が蔡昌憲かを見分けられず、食パン一袋や一つの役職のために権力者に膝を屈するなら、蔡昌憲たちの血は無駄流しとなる。

この影評の最終的な目的は、すべての台湾人が「洗浄された安らぎ」から目覚めることにある。資源を握り、私たちに微笑みかける権力者が、実はかつて私たちの「父」を連れ去った張本人である可能性に気づくべきだ。私たちは賊を父と仰いではならない。ましてや、道義的な「一恩報十」をこれら搾取者に適用してはならないのである。

真の正義とは、己のアイデンティティを認識し、失踪した父を取り戻し、そして私たちのベッドに当たり前のように横たわり、音楽を聴いている范春を、私たちの家園から徹底的に叩き出すことだ。そうして初めて、映画のラストで未だ目覚めぬ子供が、いつの日か自分自身の、自由で清醒な人生を手にすることができるのである。