子どものころ、大手の製鉄会社に勤めていた父は、ほとんど自宅にいなかった。
戦中に生まれ、高度経済成長期に働き始めた父は、絵に描いたような仕事人間。現場監督の仕事で、何カ月も家を空けた。
転勤ばかりで、小学生の時は各地を転々とした。父が生まれ育った福岡に落ち着いたのは、中学生になってからだった。
勉強を教えてもらったり、一緒に遊んだりした記憶はほとんどない。兄と自分の育児は、母がパートをしながら担っていた。
九州地方の県庁に勤める男性(50)は、そんな家庭で育った。昭和では、ごく一般的な家族だ。
「大黒柱にならなければ」
学校ではいい思い出がない。「男子は丸刈り」が中学校の校則で、我慢して床屋に行った。「男なら弱音を吐くな」とよく叱る教師がいた。
高校では、吹奏楽部に入り、テューバを担当した。だが、音がうまく出ないと、顧問は指揮棒を投げつけた。
私立大学を出て、公務員試験に合格。県庁に入った。母は手放しで喜んでくれた。
父の背中を見てきたから、「一家の大黒柱にならなければ」と思っていた。26歳で同僚の女性と結婚し、2人の子どもに恵まれた。
しかし順風満帆だった人生の歯車が、34歳で狂う。妻と子育てについて意見が合わず、口論になって暴力をふるってしまった。「仕事も家庭も」と気負っていたが、理想に近づけず、いらいらが募っていた。
妻は子どもを連れて家を出ていった。
裁判所の調停ですぐに離婚が成立。子ども2人の親権は元妻が取った。
原文出處 朝日新聞